シンクロニシティ(意味のある偶然)に関して読書感想文を書きました。
ある場所で発表予定だったのですが、都合によりそれが無くなったので、
この場を借りて掲載させて頂きます。
書籍名:シンクロニシティ―「奇跡の偶然」による気づきと自己発見への旅

フランク ジョセフ著
1890円
出版社: ベストセラーズ (1998/12)
↓↓↓長文ですがご興味のある方はこちら シンクロニシティとは意味のある偶然のことである。例えば「学生時代の友人A君の夢を見て目が覚めた。その日の通勤の電車の中でA君本人とバッタリ再会した」、といった不思議な現象である。このような体験は多かれ少なかれ誰にでもあるはずだ。
上記のような出来事に対する解釈には様々あるように思われるが、大きく2種類に分類してみた。
信じる派:「科学では解明出来ない原理がこの世に存在し、シンクロニシティとはその1例である。その存在をきちんと認めることが重要である。」
信じない派:「上記のような現象は一見不思議に思えるが、確率論的にあり得る範囲内である。シンクロニシティを特別視するのは迷信やオカルトにはまってしまうことと同義である。」
皆さんはどちらの派だろうか。私は以前は熱狂的な「信じる派」であった。その頃、私がどのように「信じない派」を説得しようと試みていたかを下記に紹介しよう。
● シンクロニシティは存在する?
私自身、シンクロニシティと思われる偶然を何度も体験している。その1つが次のエピソードである。
ある夏の日、私は代々木公園に自転車で出かけた。夕方の帰り道の道路で携帯電話が鳴ったのでブレーキをかけて止まり、友人とたわいのない話を1分ほどした。そして再び自転車をこぎ出そうと思った瞬間に前輪の真ん前にコオロギのような虫がうごめいているのに気づいた。携帯電話が鳴らなければ轢き殺してしまっていたところだ。
この虫にとってはラッキーだったなと思って拾い上げてみてビックリ。それは脱皮直前のセミの幼虫だったのである。セミの抜け殻は何度でも見たことがあるが、その直前の生きた幼虫は生まれて初めて。まじまじと眺めた次第である。さて、このままではクルマに轢かれてしまう。道路から脇に数メートル入った木の幹に止まらせてやり、「ちゃんと羽化するんだぞ」と祈ったのである。
その後約10分後、なんと私はタクシーに轢かれた。とはいっても自転車のカゴがグシャッとつぶれた程度で自分はかすり傷だけであった。
当初は反省の様子が見られなかった運転手に対して私は激しい怒りを覚えた。詳細は割愛するがほぼ100:0で先方に責任がある事故状況であり、「診断書」、「人身事故」といったキーワードを伝えてからは相手は平謝り状態になった。十二分に薬が効いたように思ったので「人身事故になっては失業して困るでしょう。今回は水に流しますから、今後は気をつけて運転して下さい。」と許してあげた次第である。
上記の体験は、確率論的にみると極めて珍しい事象である。
・生まれて初めて脱皮直前のセミの幼虫を見た
・携帯電話が鳴るのがあと1秒でも遅れていたらセミの幼虫を自転車で轢いていた
・その約10分後に生まれて初めてタクシーに轢かれた(極めて軽傷だったが)
・セミを轢かなかったが、自分がタクシーに轢かれた
「どうです。あり得ない偶然でしょ。何か不思議な力が働いていると思いませんか?」。この体験に関してそう問いかけると、8割程度の人は同意する。しかし残りの2割の人は、かたくなにシンクロニシティの存在を否定するのである。「確かに珍しいことかもしれませんが、確率的に絶対にあり得ないとは言い切れませんよね」、と。
仕方ないので、私は第2第3の不思議な偶然体験を披露するわけである。しかし、彼らは頑なにシンクロニシティの存在を否定しつづけ、それが単なる偶然だと主張するのであった。
● シンクロニシティは私的な体験
この本に出会ってからは、私は「信じる派」から考えを変えた。それは信じる・信じないの2元論ではなく、新たな考え方だったのである。
「シンクロニシティはきわめて私的な現象だ。」(P34)。このフレーズは私にとって目から鱗であった。
それまでの私はシンクロニシティの存在を証明するために、統計的に見てそれがいかに確率の低い(あり得ない)ことかを主張しようと努力してきたのである。しかしそれはシンクロニシティの本質では無い。ある出来事がいかに珍しいことであり、1万分の1や100万分の1の確率での出来事であっても、それは従来の統計学の範疇にある。科学で説明できるのである。
この本がきっかけで、出来事の発生確率の低さではなく、それを体験した人がどう感じるかこそがシンクロニシティの本質なのだと思い至ったのである。
例え2分の1の確率の出来事であってもシンクロニシティは起こり得る。こんな架空のエピソードでそれを説明してみよう。
私は京都育ちで東京在住であるが、仮に東京を引き払って京都に戻ろうかで悩んでいたとしよう。そこで10円玉でトスをしてみたとする。10というアラビア数字が大きく書かれた側が出たら東京。裏が出たら京都。そして出たのは裏だった。その絵柄を見て私は愕然とした。そこに描かれているのは昔懐かしい宇治(京都)の平等院ではないか! 大いなる何者かが、私は京都に帰るべき運命であることを教えてくれた。そんな感銘を覚えたのである。
いかがだろうか。10円玉の裏に平等院が描かれているのは常識。トスしてその側が出るのは2分の1の確率。コイン・トスの結果をそう真剣にとらえるのは大げさだと考える人がいても当然であるし、合理的な思考である。ただ、そうであったとしても、当人が「感銘」「不思議さ」「大いなる何者かとのつながり」などを感じているのであれば、それはシンクロニシティなのである。
シンクロニシティが私的な体験であることを示すフレーズを、この本からいくつか抜粋してみよう。
「それを体験した者は内なる幸福感に満たされ、自分が自然という大きな存在の一部であることを体感するのだ。」(P24)
「『私は君と一緒にいる』と神様に語りかけられたような気がしましたよ。」(P72)
「(妊娠検査の結果は)、やはり陰性だった。しかしこの瞬間、彼はなんともいえない幸せな気分に包まれた。明るい将来が確約された気分、というか、とにかく今度こそ子供ができるようになると確信したのである。」(P70)
この本に出会ってから、私はシンクロニシティに対する「信じない派」を説得することを一切止めた。私的な体験を一般法則化し、「真実」として他人に強要しても仕方がない。むしろシンクロニシティが自分にとってどんな意味があるのかを考えることに注力し始めたのである。
● シンクロニシティが意味するもの
「シンクロニシティが自分にとって意味するものが何かを探求しよう。」
この本の原題がその姿勢を応援してくれているように思う。タイトルは「Synchronicity & You」。表紙では「You」の文字がひときわ大きく描かれている。著者にとっての「あなた」、すなわち「我々自身」がメイン・テーマなのである。そして原書での副題「Understanding the Role of Meaningful Coincidence in Your Life」を訳すとこうなる。「意味のある偶然があなたの人生にどんな役割を持つのかを理解・解明する」。
話は前後するが、数あるシンクロニシティに関する文献の中で、なぜ私がこの本を取り上げたかをお話しよう。シンクロニシティに関する書籍を読めば具体的事例は増える。しかし、読めば読むほどその本質がわからなくなるのである。言い換えると以下の3つの素朴な疑問に真っ直ぐに答えようとした書籍はこの本以外には出会わなかったのである。
・シンクロニシティはなぜ起きるのか?
・それが意味するものは何か?
・をれを役立てることは出来ないだろうか?
また数多くのシンクロニシティを分類することさえ、他の書籍では殆ど行われていない。この書籍では17個へ分類する試みがなされている(P31~P34)。
シンクロニシティに関する素朴な疑問を定義してそれに答えること。そしていくつかに分類すること。この本がその試みに完璧に成功しているとは必ずしも言えないが、壮大なテーマに真っ直ぐに取り組んだ書籍として高く評価できるのである。高い評価を下しているのは私だけでは無い。米国アマゾン・ドット・コムで「synchronicity」を検索すると、この本の原著が3位に表示されるのである。
さて、シンクロニシティが意味するものは何かという本題に戻ろう。この書籍からランダムにキーワードを拾ってみた。「天職」「救済」「警告」「死」「誕生」「再生」「愛情」などなど。
私自身のセミの幼虫&タクシー事件をこの本をもとに振り返って気づいたことがある。これはある種の「再生」を意味しているのではないか。もう少し具体的に言うと「脱皮」である。セミの幼虫はまさに脱皮しようとしていた。しかしその脱皮はクルマに轢かれるとう危機に直面してもいた。狭い意味では、私がタクシーの運転手を許すことを行ったのも人間的成長(脱皮)のシンボルかもしれない。また詳しい状況は割愛するが、この出来事の起きた時期は私にとってひとつの転換期でもあったのである。
皆さん自身がシンクロニシティを体験していたとすると、上記のような意味の解釈が可能だろうか。一部の人は「なるほど。そう解釈できるな!」とヒザを打つかもしれない。しかし、そう簡単には意味の解釈が出来ない場合も多いのである。
そこで著者は「シンクロニシティ日記」をつけることを薦めている。ささいな偶然を体験したら、忘れないようにそれを記録するのである。著者が提供している17種類の分類が記録の際には役立つだろう。彼はこの手法の有効性をジグソーパズルに例えている。断片だけでは何のことかわからなくても、いくつかを組み合わせる過程で描かれていた物の輪郭が浮かび上がって来るというわけである。
ただし、日記をつけたからといって意味解釈が100%可能になるわけでもない。むしろ「未だ分からない」という場合が多いのではないか。そんなケースに対して著者はこのように述べている。
「シンクロニシティの意味は茫洋としたものが多いが、体験者の話を聞くと、一様にひとつの感覚について語り始める。それは、『流れに身を任せる』感覚である。こうすることによって、現象の真意はわからないものの、魂が安らいだような気になったというのだ。」(P310)
コロンブスの卵的であるが言われてみればその通りだと私も思う。ただそれだけのことだが、これがシンクロニシティの最大の「意味」なのではと思うのだ。
ただし、繰り返しになるがシンクロニシティとは私的な体験である。それを単なる偶然と感じようと、何か意味があると感じようと自由である。その意味の解釈も自由だ。皆さんは自分の体験に対してどんな解釈をするのだろうか。最後にこの本からの引用でコラムのまとめに代えようと思う。
「シンクロニシティはきわめて私的な体験である。よって、体験者以外の人間が正しい解釈を行うことは不可能だ。」(P128) |